習志野市 習志野市の軍事基地としての歴史

習志野市   習志野市の軍事基地としての歴史

小金牧の大和田原(いまの千葉県船橋市習志野台から高根台周辺)はかつて明治天皇御覧のもと、陸軍による演習が行われていましたが、後に習志野原と命名され陸軍の演習場となりました。 その後、演習場の敷地は拡張され、現在の習志野市・八千代市の一部までに及ぶ広大なものとなり、これが後の習志野演習場です。 陸軍習志野練兵場には日露戦争時に捕虜の収容施設が設けられ、ロシアの捕虜が、さらに第一次大戦時にはドイツやオーストリア、ハンガリーの捕虜が収容され使用されていました。 昭和に入ると近隣を含めた範囲内に陸軍習志野学校や戦車連隊、糧秣廠の倉庫などが置かれ、松戸から津田沼まで引かれた演習路線はいまの新京成電鉄となっています。 こうしてできた軍隊の街・習志野ですが、近年には旧日本陸軍軍用跡地に毒ガス弾が地中に残されている可能性が浮上し、いまだ船橋市・八千代市などにまでまたがる問題となっています。 津田沼町周辺には軍関係施設が点在していました。軍施設は戦後に民用施設に転換され住宅地や教育施設、病院、工場として利用されはじめました。 千葉工業大学津田沼キャンパスには鉄道第二連隊の表門の残存を観ることができます。